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「世界に誇る薩摩ボタンに新たな命を吹き込み蘇らせた1人の女性の物語」HI_STORY#1 薩摩志史代表絵付け師 室田志保さん

2020年、東京オリンピック開催、今世界中の視線がこの日本に向けられている中、政府が発表した統計では2018年に訪日観光客は3000万人を超え過去最高となった。ますます海外から日本の魅力を求めてくる人々が増えていく一方で、私たち日本人は自国の魅力についてまだ知らないことが数多くあるのではないだろうか?そこで、今回は日本が世界に誇る「HI_STORY」(歴史の物語)の一つをご紹介。

記念すべき、HI_STORY第1弾として今回ご紹介するのは、今尚も日本のみならず、海外でも根強いファンが多く存在し、鹿児島が世界に誇る工芸品のひとつである「薩摩ボタン」。薩摩焼の生地をボタンとし、その小さな表面には、精巧かつ豪華絢爛な絵付けが施され、そこには小さな宇宙が広がっている。その歴史は幕末の薩摩藩の手によって始まり、当時のジャポニズム誕生の火付け役となった工芸品の一つともされている。

だが、時代とともに、いつしかその技術を受け継ぐ者は途絶えてしまったのであったのだが、ある時薩摩ボタンの止まった歴史を見事に自らの手で蘇らせ、新たな命を吹き込んだ、ある1人の勇敢な薩摩の女性が存在したのであった。

|Prologue 〜序章〜|

今回ご紹介する薩摩ボタンの舞台となるのは、鹿児島県垂水市の田神。今尚も荒々しく噴火を続けている桜島のふもとにあり、周りを海と山で囲まれた自然豊かな場所で、「シラス台地から流れる水晶のような清らかな水が湧き出す地」ということから「垂水」という地名になったとも言われている。

取材当日は、あいにくの天候で、分厚い雲と深い霧で桜島の姿は隠れて見えなかったものの、それでも垂水の自然豊かな田園風景は雨の雫とともにキラキラと、どこか眩しい輝きを放っていた。

取材地までの道のりはフェリーで40分ほど海を渡り港から山道を車で向かう。そして、その後は車で山道を登りはじめ、山の奥深くまで進み続けた。

気がつくと当たり一面が深い霧が立ちこみ神々しい雰囲気に一瞬包まれたかと思うと、道が開け、そこに一軒のアトリエが見えてきた。今回の舞台、薩摩ボタンを復刻したアトリエ「薩摩志史」にようやく辿り着いたのだった。薩摩ボタンを自らの手で蘇らせた女性とは一体どのような人物なのだろうか?そして、薩摩ボタンにはどれほどの歴史のストーリーが潜んでいるのだろうか?高鳴る気持ちを抑えつつ、アトリエの中に入って行った。

|1.ボタンの中に広がる小さな宇宙|

薩摩ボタンの始まりは幕末に開催されたパリ万博まで遡り、一説には、薩摩藩の倒幕に必要な外資を得るための軍資金として、輸送しても壊れにくく、持ち運びしやすい「薩摩ボタン」が誕生したとも言われている。

薩摩ボタンは小さなボタンの上にミリ単位で計算された緻密なデザイン、豪華絢爛な色づかいがなされ、「ボタンの中の小さな宇宙」とも題され、日本が世界に誇る芸術品として、海外では投資目的としても多くのコレクターがいるほど。

|2. 薩摩ボタンを蘇らせた薩摩の女性|

その後、時代とともに日本各地の絵付師がその伝統を受け継ぎ、薩摩ボタンを世界に輸出していたものの、ドル相場の変動と共に徐々に衰退し、製作工程の複雑さや、ミリ単位での高度な技法が求められることからも薩摩ボタンを受け継ぐ職人がいなくなり、歴史が一度途絶えてしまったのだ。

そんな薩摩ボタンの歴史が眠ってからしばらくの年月が過ぎたある時、まるで導かれたかのように、いくつもの偶然が重なり、ある1人の薩摩の女性が薩摩ボタンと出会い、新たな命を薩摩ボタンに吹き込んだのだった。

薩摩ボタンの歴史を蘇らせた女性、それが今回の主役、室田志保(むろた しほ)さん。

一度途絶えてしまった歴史を室田さんは一体どのように蘇らせることができたのだろうか?そして、室田さんとは一体どのような人物なのか?今回、室田志保さんへの取材を通して見えてきたのは、1人の等身大としての明るく元気な母親としての顔。そしてもう一つの顔が、道なき道を新たに切り拓く、まさに薩摩ボタンが誕生した当時の薩摩藩士のような次の時代へのアンテナを高く持ち、開拓者スピリッツを併せ持った逞しくも、勇敢な職人としての姿だった。

|3. 職人を志すキッカケ|

室田さんが育ったのは鹿児島県垂水市という、周りを海と山で囲まれた自然豊かな場所。幼い頃からご両親によく「どんな時代が来ても、自らの手で生き抜く力を持てるように」と何度も言われ続けたそうだ。

当時の様子を室田さんは笑顔でこのように振り返る。

「ガスでお風呂を沸かせる時代になったにも関わらず、なぜか両親には薪でわざわざお風呂を焚かせられていました(笑)」(室田さん)

幼いころから自分の「手」を使って生き抜く力の大切さを教育された室田さん。その後、地元の短大に進学し、徐々に自分の進路について考え始めていく中で、ある時教授から「どこに就職するの?」と尋ねられたのだった。 その時の室田さんは「自分は丁稚になりたいです!」とすぐさま返答したのだった。驚くかと思われたが、しかし、意外にもすぐさま教授からは「あなたにピッタリの場所があるわよ!」と地元の白薩摩の窯元をまるで予め準備していたかのように紹介されたのだった。

そして、なんと見学初日からあっという間に、持ち前の愛嬌と根性が窯元の師匠の方々に気に入られ、アシスタントとしての職人キャリアがすぐに決まったのだった。

このようにまるで何かに導かれたかのように室田さんの職人としての人生はここからスタートし、そして、この時が薩摩ボタンに出会う最初の入り口になるとは、まだ当然誰も思いもしなかったのだ。

|4. 弟子としての10年にも及ぶ長い修行時代|

教授に紹介されて弟子入りした白薩摩の窯元。修行時代の当時は大変なこともあったのでは?と尋ねると、室田さんから返ってきた答えは意外なものだった。

「図画工作でお金がもらえるなんて当時の自分にとっては、それだけでとても衝撃的なことで、お師匠さん達とは年齢が離れていることもあり、苦労したことも当然たくさんありましたが、それよりも修行時代の10年間は毎日がとても楽しく、充実していました。」(室田さん)

10年もの長い修業期間を笑顔で素直に楽しかったと振り返える室田さん。しかし、当時の室田さんは20代の女性で、ただでさえ職人という特殊な環境下で、一体どのようにして10年にも及ぶ長い修行期間を続けることができたのか?と再度尋ねてみた。

「当時の窯元が作っていたものが一般的に広く普及しているお土産用の薩摩焼とは違い、高級品として名高い白薩摩のお茶道具であったことが大きく影響していましたね。そういった意味でお師匠さん達からは仕事としての高い技術をきちんと教えて頂いていました。白薩摩は製作工程が非常に多く、本焼きで本来終わるところを、さらにその上から絵付けなどが入り、何倍もの時間と高い技術が必要とされ、そういった仕事を教えて頂いていたのは薩摩ボタンをつくる上でも、今となっては貴重な財産になっています。」(室田さん)

実はこの10年間という長い修行期間で現在の薩摩ボタンをつくる上で欠かせない技術を習得していた室田さん。そして、そんな薩摩ボタンとの出会いはある時偶然訪れるのだった。

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